【伝説のピアニスト】フジコヘミング、追悼。何人?ハーフ?しかも難聴だった。

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2024年4月21日。

フジコ・ヘミングさんが、容体が急変し、亡くなりました。92歳でした。

2024年3月の検査で、すい臓がんと診断され療養を続けていたということです。

葬儀は近親者で済ませたとのこと。

フジコ・ヘミングさんは名前は聞いたことあるけど・・・という方もいらっしゃるかと思い、

彼女のことをまとめてみました。深掘っていきましょう!

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目次

フジコ・ヘミングは何人?ハーフ???

生い立ち

ドイツ留学中だった日本人ピアニストの母(大月投網子さん)と

スウェーデン人で建築家の父(ヨスタ・ゲオルギー・ヘミング氏)の間にベルリンで生まれました。

この時は、無国籍でした。

間もなく東京へ移住。しかし、父は日本に馴染めず、一人スウェーデンに帰国してしまいます。

5歳で母からピアノを教わり始め、

青山学院緑岡尋常小学校(現:青山学院初等部)3年生の時にはNHK ラジオに最年少で出演。

天才少女として知られるようになります。

東京芸術大時代には多くの賞を受賞。海外留学を望むが、無国籍ということが発覚し、できませんでした。

西ドイツ赤十字社に認定された難民という形で、28歳でベルリンの音楽学校に留学。

卒業後、演奏家としてキャリアを積み、指揮者レナード・バーンスタインらに才能を認めらます。

母の死去を受け、1995年に日本へ帰国。

1999年発売のデビューアルバム「奇蹟(きせき)のカンパネラ」は200万枚超のヒットに。

リストとショパンを弾くために生まれたと言われた、フジコ・ヘミングさん。

晩年まで国内外で演奏を続け、昨年2023年11月に自宅で転倒し、2024年3月には膵臓がんと診断されます。

国籍はスウェーデンで、ハーフだったんですね。長らく無国籍だったために、留学できなかったとは。

フジコ・ヘミングの壮絶な人生。なんと難聴だった。

伝説的なピアニストである、フジコさん。実は、耳が難聴です。

もともとではなく、病気で失っているんです。

まず16歳の頃、中耳炎の悪化により右耳の聴力を失います

また、ベルリンの音楽学校後、ヨーロッパに残って各地で音楽活動をしますが、

生活面は母からのわずかな仕送りと奨学金で生活するという、大変な貧困が長らく続きます。

悲劇はやはり起こります。

貧しさで、真冬の部屋に暖房をつけることができず、大切なリサイタル直前に風邪を拗らせてしまいます。

大きなチャンスを逃すだけでなく、左の聴力も失ってしまいました

この地球上に私の居場所はどこにもない…天国に行けば私の居場所はきっとある。」その時のフジコのセリフです。

その後、耳の治療をしながら、音楽学校の教師の資格を得て、以後はピアノ教師を。

もちろん欧州各地でコンサート活動を続けました。そして、その後、日本へ。

左耳は40%回復していたようです。回復してよかった!

フジコ・ヘミングの奏でる、『ラ・カンパネラ』

フジコ・ヘミングさんと言えば、ラ・カンパネラ。

今ではyoutubeで聴くこともできます。これを機会にぜひ。

個人的に、この動画は↓好きです。猫好きな方はぜひみてみてください。

まとめ

調べれば調べるほどに、壮絶で、でもピアノ共に生きてこられたんだなと感じます。

その人生や生き方がピアノの音ひとつひとつに込められているのと考えると、

胸にくるものがあります。

生い立ちや、病気のこと、そのアーティストの背景を知るもの大切だなと、改めて感じました。

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